『源氏物語絵巻』における文学と絵画の協働:語りと図像の関係性を多角的に読み解く
はじめに:物語絵巻という表現形式
古典文学、特に物語文学の解釈において、活字テクストを深く読み込むことはもちろん重要ですが、関連する視覚芸術を参照することで、新たな理解や多角的な視点が開ける場合があります。その中でも、詞書と絵が一体となった「物語絵巻」は、文学と絵画が密接に連携した表現形式であり、テクストのみでは捉えきれない豊かな世界を提供してくれます。
本稿では、日本絵巻史における最高傑作の一つとされる『源氏物語絵巻』を事例に、詞書(ことばがき)と呼ばれる文章部分と絵が、互いにどのように影響し合い、作品全体の意味や雰囲気を構築しているのか、その協働のあり方を多角的に考察いたします。読者の皆様には、この考察を通じて、物語絵巻における文学と絵画の関係性への理解を深め、コミュニティでの活発な意見交換のきっかけとしていただければ幸いです。
詞書と絵の基本的な関係性:補完、重複、そしてズレ
物語絵巻における詞書と絵の関係性は、一義的ではありません。大きく分けて以下の三つのパターンが考えられます。
- 補完: 詞書では簡潔に述べられている情景や登場人物の感情が、絵によって具体的に、あるいはより豊かに表現される場合です。絵は詞書に書かれていない細部、例えば衣装の色や柄、建物の構造、人物の表情や仕草などを描き加え、読者・観賞者の想像力を補います。『源氏物語絵巻』では、詞書では語りきれない登場人物の内面的な機微や、場面の雰囲気などが絵によって精緻に描き出されています。
- 重複: 詞書に書かれている内容が、絵によって忠実に視覚化される場合です。これは、詞書の記述を絵が確認・補強するような関係性と言えます。
- ズレ(または非対応): 詞書の内容と絵の表現が、部分的に異なっていたり、絵が詞書の一部しか描いていなかったり、逆に絵が詞書にない要素を含んでいたりする場合があります。この「ズレ」は、単なる制作上の誤りである可能性もありますが、意図的な表現、あるいは詞書とは異なる解釈や視点を絵師が加えた結果として生じている可能性も指摘されており、解釈の大きな手がかりとなります。
例えば、『源氏物語絵巻』「宿木」巻の第三段では、女三宮が出家する場面が描かれています。詞書には、世間の人々が女三宮の出家を嘆き悲しむ様子が記されていますが、絵では、女三宮が髪を落とす際に伏し目がちに顔を覆う仕草や、周囲の人々が複雑な表情で見守る様子が、詞書以上の情報量で表現されています。これは上記の「補完」の例と言えるでしょう。
一方で、「竹河」巻の第一段では、玉鬘の息子である大将が右大弁の娘と結婚する場面が詞書に記されていますが、現存する絵はその場面ではなく、大将が右大弁のもとへ通う様子を描いているとする解釈があります。もしこれが正しければ、詞書と絵が対応していない「ズレ」の例となり、このズレが何を意味するのか、様々な解釈が成り立ち得ます。絵師が詞書の特定の記述を避けたのか、別の詞書に対応する絵なのか、あるいは詞書の記述に依拠しつつも物語の別の側面を強調しようとしたのかなど、議論の余地が生まれます。
絵画表現がもたらす解釈の深み
物語絵巻の絵は、単に詞書の内容を「描く」だけでなく、独自の表現方法によって作品世界に深みを与えます。
- 構図と視点: 絵巻特有の引目鉤鼻(ひきめかぎはな)や吹抜屋台(ふきぬきやたい)といった表現技法は、登場人物の感情や建物の内部空間を独特の形で示します。引目鉤鼻は人物の表情を抽象化することで内面描写を深め、吹抜屋台は屋根を取り払って上から見下ろすような視点で建物の内部を描き、複数の登場人物や同時進行する出来事を一つの画面に収めることを可能にしています。これらの技法は、テクストの語りとは異なる、絵画独自の視点や空間認識を提供します。
- 色彩と雰囲気: 『源氏物語絵巻』に見られる鮮やかな色彩は、当時の宮廷の華やかさや、登場人物の心情を象徴的に表現している場合があります。例えば、悲しみや憂いを帯びた場面では、沈んだ色調が用いられることがあります。色彩の選択や使用法は、詞書が伝える物語の雰囲気や感情を視覚的に強調する役割を果たしています。
- 省略と強調: 絵は詞書の全ての情報を網羅するわけではなく、特定の要素を省略したり、逆に強調したりします。この省略や強調は、絵師が物語のどの側面に焦点を当てたかを示唆しており、絵師の解釈や意図を読み解く手がかりとなります。
例えば、『源氏物語絵巻』「柏木」巻の第三段の絵では、光源氏が女三宮の部屋に忍び入ろうとする緊迫した場面が描かれています。詞書では光源氏の苦悩や決意が語られますが、絵では、暗闇の中、格子越しに室内を覗う光源氏の姿と、その手前に置かれた几帳(きちょう)などが描かれています。几帳による空間の仕切りや、光源氏の姿の捉え方、そして画面全体の暗い色調が、詞書に描かれた出来事の密行性や背徳感を、絵画的に強く印象づけています。この絵は、詞書の記述を補完するだけでなく、絵画独自の表現で場面の心理的な深みを増幅させていると言えるでしょう。
制作背景と受容の視点
物語絵巻の解釈においては、制作当時の背景にも目を向ける必要があります。『源氏物語絵巻』は、平安時代末期、12世紀に成立したと考えられています。制作には、詞書を書写する能書家(のうしょか)と、絵を描く絵師が関わっており、それぞれが複数の人物によって分業されていた可能性も指摘されています。詞書と絵の間の「ズレ」が、異なる制作主体間の意思疎通の不備によるものなのか、あるいは絵師が独自の解釈を加えた結果なのかを考察する際には、このような制作体制を考慮に入れる必要があります。
また、物語絵巻は「読む」だけでなく「観る」ものであり、詞書を読み上げながら絵を順に見ていくという形で受容されたと考えられています。絵巻がもたらす視覚的な体験は、活字テクストのみを読むのとは異なる形で、読者・観賞者の感情や理解に訴えかけたはずです。例えば、ある場面の絵が強烈な印象を与え、その後の詞書の読み方に影響を与えるといった相互作用も考えられます。物語絵巻を、当時の人々がどのように受容し、解釈していたのかという受容史的な視点も、絵巻の理解を深める上で重要です。
おわりに:多様な解釈への誘い
『源氏物語絵巻』における詞書と絵の関係性は、単なる挿絵に留まらず、文学と絵画が互いを補完し、時に異なりながらも、複雑で豊かな物語世界を共に創造していることを示しています。詞書と絵の間の「ズレ」や、絵画表現独自の力点は、解釈の多様性を生み出す源泉となります。絵師は詞書をどのように読み、それを絵として表現したのか。絵は詞書を読む者にどのような影響を与えたのか。そして、私たちは詞書と絵の両方を見ることで、物語の新たな側面にどのように気づかされるのか。
本稿で提示した視点が、『源氏物語絵巻』に限らず、他の物語絵巻についても、詞書と絵の関係性を深く考察するきっかけとなり、古典文学の解釈に多角的な視点を取り入れる一助となれば幸いです。コミュニティの皆様には、特定の場面における詞書と絵の関係性について、あるいは他の物語絵巻との比較など、自由な視点からご意見や解釈を共有していただければと存じます。
参考文献(例)
- 秋山光和監修『源氏物語絵巻』(小学館、1997年)
- 土佐光則『源氏物語絵巻(原本忠実複製)』豪華限定出版(求龍堂、1994年)
- 河地修『物語絵研究』(中央公論美術出版、2010年)
- 高畑薫『物語絵の魅力』(平凡社、2014年)
- 中野幸一『源氏物語絵と物語』(至文堂、1987年)
※上記はあくまで考察の例を提示するための参考文献であり、実際の記事執筆においては、より専門的かつ最新の研究成果を踏まえた参考文献リストを作成することが望ましいです。