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『枕草子』における「をかし」の考察:多義性と解釈の広がり

Tags: 枕草子, をかし, 清少納言, 解釈, 美意識, 日本文学, 古典文学

はじめに

清少納言の『枕草子』は、日本文学史において独自の光彩を放つ作品です。「春はあけぼの」「をかしきもの」といった冒頭部の鮮烈な印象は、多くの読者の記憶に刻まれています。中でも、「をかし」という言葉は、『枕草子』の世界観や清少納言の感性を理解する上で極めて重要な概念としてしばしば論じられてきました。

現代の「おかしい」という言葉は、主に「滑稽だ」「変だ」といった意味で用いられますが、古典語における「をかし」は遥かに多様な意味を含んでいます。単なる感興の言葉に留まらず、『枕草子』の多くの場面で用いられるこの概念を深く探求することは、作品の多層的な魅力を解き明かす鍵となります。本稿では、「をかし」の多義性とその解釈の可能性について、複数の視点から考察を深めていきたいと思います。

「をかし」が持つ多義性

古典語辞典を紐解くと、「をかし」には以下のような多様な意味が記されています。

清少納言はこれらの意味を場面に応じて使い分け、あるいは複数の意味を同時に含ませながら「をかし」を用いています。例えば、「あかつきに帰らむとて」の段で、雪の降る夜に退出する殿上人の装束を「をかし」と評する箇所は、視覚的な美しさ(趣深い装束)と、夜更けの雪の中での特別な状況に対する興味深さ、あるいは少し滑稽さといった複数の感覚が込められていると考えられます。

雪いと高く降りたるを、いかならむとて、わらはべなどおこして見れば、思ひの外に、火など消して、音なく、人なども見えぬ、いとをかし。 (雪がたいそう高く積もったのを、どうなっているだろうかと思って、子供たちを起こして見せると、思いのほか、灯も消して、物音もせず、人も見えないのが、たいそう趣深い/面白い。)

ここでの「をかし」は、静寂の中の雪景色に対する美的感覚と、意外な状況に対する興味深さ、あるいはどこか神秘的な感覚をも含んでいると言えるでしょう。このように、「をかし」は単一の感情や評価を表す言葉ではなく、清少納言の複合的な感性を示す言葉なのです。

「をかし」を読み解く多様な視点

「をかし」の多義性を踏まえると、その解釈には様々なアプローチが可能です。

1. 美意識としての「をかし」

『枕草子』における「をかし」を、当時の貴族社会、特に女性たちの間に共有されていた独特の美意識として捉える視点があります。清少納言は、四季の移ろいや自然の現象、人々の装束や立ち居振る舞い、果ては取るに足りない出来事の中にまで「をかし」を見出します。これは、万葉集などに見られる「あはれ」(しみじみとした情趣)とは異なる、明るく知的で鋭敏な美的感覚と言えます。清少納言が「をかし」を通して切り取る世界は、単なる写実ではなく、彼女自身の価値観や美学に彩られた世界です。「をかし」は、清少納言というフィルターを通して再構築された現実の姿を示す言葉とも言えるでしょう。

2. 人間観察・批判としての「をかし」

「をかし」はまた、人間や社会に対する清少納言の鋭い観察眼や批判精神を示す際にも用いられます。例えば、「にくきもの」(癪にさわるもの)の段の直後に置かれた「うつくしきもの」(かわいらしいもの)の段は、対照的ながらどちらにも清少納言の人間や物事への関心が深く現れています。また、宮廷での出来事や人々の言動に対する評価の中に「をかし」を用いる場合、そこには単なる面白さだけでなく、時に皮肉やユーモア、あるいは諦念といった感情が含まれていることもあります。これは、清少納言が単なる感傷的な女性ではなく、社会の一員として周囲を冷静に見つめる知識人であったことを示唆しています。

3. 文体・修辞としての「をかし」

『枕草子』の最大の特徴の一つは、その軽快で断定的、そしてしばしば列挙を多用する文体です。「をかし」という言葉は、このような文体と密接に関わっています。「をかし」と結ばれる事物は、往々にして断片的な観察や瞬間的な感覚に基づいています。そして、「をかし」という言葉で締めくくられることによって、その事物の「をかし」さが読者に強く印象づけられます。これは、「をかし」という言葉が持つ修辞的な効果であり、清少納言が読者の感性に直接訴えかけるためのテクニックと言えます。

4. 批評理論からの視点

現代の批評理論を援用することで、「をかし」に対する新たな解釈の可能性も開かれます。例えば、ジェンダー批評やフェミニズム批評の視点から見れば、「をかし」は当時の男性中心的な社会規範や美意識に対する、女性である清少納言による独自の価値観の提示、あるいは微妙な抵抗の表明として読み解くことも可能かもしれません。また、清少納言がどのような対象に「をかし」を見出すのかを詳細に分析することは、当時の社会構造や価値観、そしてその中での清少納言の立場や戦略を考える上での重要な手がかりとなります。

おわりに

『枕草子』における「をかし」は、単なる翻訳では捉えきれない、豊かな多義性を持つ言葉です。それは清少納言の個人的な感性を示すと同時に、当時の社会や文化、美意識の一端を映し出しています。そして、「をかし」が用いられる様々な文脈や、他の言葉(特に「あはれ」)との関係性を詳細に検討することで、作品全体の理解はより深まります。

一つの「をかし」に注目するだけでも、美意識、人間観察、文体論、批評理論といった多様なアプローチが可能であり、それぞれが新たな発見をもたらしてくれます。コミュニティの皆様と共に、「をかし」という言葉を巡って、さらなる多角的な読み解きや議論を深めていくことは、『枕草子』、ひいては古典文学の解釈の面白さを再認識する機会となるでしょう。