『徒然草』における時間の観念の考察:複数の章段から読み解く多様な視点
はじめに
吉田兼好による『徒然草』は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて成立したとされる随筆文学の傑作です。無常観や隠者思想といった仏教的な背景を持ちながらも、当時の世相や人間の営みに対する鋭い観察眼、そして兼好自身の内面が、断片的かつ示唆に富む筆致で綴られています。その内容は多岐にわたりますが、本稿では『徒然草』において繰り返し現れる「時間」という観念に焦点を当て、複数の章段を具体的に引きながら、兼好が時間をどのように捉え、表現しているのかを多角的に考察いたします。
『徒然草』における時間の観念は、単に物理的な時間の流れを描写するに留まらず、人の心や世のありようと深く結びついています。そこには、仏教的な無常観に基づく時間意識、過去への追憶や現在への観察といった個人的な時間感覚、さらには刹那的な瞬間から悠久の歴史まで、多様なスケールでの時間の捉え方が見られます。これらの多様な時間観念を読み解くことは、『徒然草』という作品の深層に触れる上で重要な鍵となります。
無常観と時間の不可分性
『徒然草』において最も支配的な時間観念の一つは、仏教的な無常観に基づいています。世の全てのものは常に移り変わり、定まることがないという思想は、時間の経過そのものと不可分に結びついています。
例えば、第百八十九段には、世の移り変わりに対する兼好の感慨が述べられています。
世は定めなきこそいみじけれ。
昔は、人の家も、人までも、常に変はらぬこそよしと見しかど、今は、さにもあらず。年のうちにも、春・夏・秋・冬と移り変はるこそ、面白けれ。月のうちにも、明け暮れ、けしき変はる。日々に時々、物のけしき改まるこそ、万(よろづ)につけてあはれなれ。
ここでは、「世は定めなきこそいみじけれ」(世の中が定まりないことこそが素晴らしい)と述べられており、季節の移り変わりや日々の変化といった時間の経過そのものが、世界の動的なありようとして肯定的に捉えられています。これは、万物が生成変化し、止まることのない時間の流れこそが世界の真実であるという無常観の反映と言えるでしょう。同時に、この絶え間ない変化の中にこそ「面白さ」や「あはれ」を見出す感性は、単なる諦念に終わらない兼好独自の視点を示しています。
また、序段において「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という『方丈記』の有名な一節が引用されることはありませんが、『徒然草』全体に流れる思想の基底には、まさにその流転する時間の中で生滅を繰り返すものの姿を見つめる眼差しがあります。様々な出来事や人物への言及を通して、兼好は時間の流れの中で失われていくもの、そしてそれでも残り続けるものへの深い洞察を示しているのです。
過去・現在・未来:個人的な時間感覚
『徒然草』には、普遍的な無常観だけでなく、兼好自身の個人的な時間感覚が色濃く反映された章段も多く見られます。特に過去への追憶は重要な要素です。
第五十一段は、兼好がかつて見聞きした素晴らしいこと、人々、風習などを回想する章段です。
あだしごころのある習ひにて、過ぎにし方の事、恋しく思ひ出でらるるこそ、はかなけれ。
人のありさまも、世の有様も、三十(みそぢ)あまりになりぬれば、そこはかとなく、ものごとに心つく。若き人々は、見知りたまはじ。
ここでは「過ぎにし方の事、恋しく思ひ出でらるる」(過ぎ去った昔のことが、恋しく思い出される)とあり、過去の出来事や失われたものへのノスタルジーが表明されています。そして「三十あまりになりぬれば」という記述から、兼好自身の年齢と経験が、このような過去への回顧を生み出していることが分かります。これは、無常観が普遍的な真実であると同時に、それが個人の経験や年齢によってどのように感じられるかという、主観的な時間感覚を示しています。過去は二度と戻らないものとして、だからこそ愛惜の念を持って振り返られる対象となっています。
一方で、現在の観察や出来事の描写も多くを占めます。第八十九段の仁和寺にある法師が石清水八幡宮へ参詣した話や、第百五十五段の高名の木登りの話などは、兼好が現在進行形で見聞きした(あるいは伝え聞いた)出来事を活写しています。これらの章段における時間は、物語的な現在として展開し、読者をその場に引き込みます。
未来に対する言及は比較的少ないかもしれませんが、死への準備(第八十七段、第九十二段など)や、世の行く末に対する漠然とした不安や諦めといった形で現れることがあります。未来は不確かであり、コントロールできないものとして認識されている節が見られます。
刹那と悠久:時間のスケール
『徒然草』には、極めて短い瞬間から、歴史的な時間の流れ、さらには仏教的な劫(こう)のような悠久の時間まで、多様なスケールでの時間への意識が織り交ぜられています。
第百五十五段の「高名の木登り」の章段では、木の上での一瞬の油断が命取りとなる状況が描かれています。ここでは、熟練した木登り名人が弟子に「あやまちするは、鐙(あぶみ)かけ、手かけやうの足づかひ、少しと思ふところにこそ、安き心はまさるものなれ」と教える場面が重要です。最も注意すべきは、危険な場所ではなく、むしろ安全だと思い油断が生じる瞬間であると指摘しており、これはまさに刹那の時間における気の緩みが招く結果の重大さを示しています。この章段は、瞬間の判断や意識の状態が、その後の結果を大きく左右するという、非常に短い時間のスケールにおける人間心理の綾を描き出しています。
対照的に、第三十八段では中国の歴史に触れ、「唐土(もろこし)に、聖(ひじり)のおもむきを伝えたりける書(ふみ)ども、多くこの朝(あさ)に伝はれり」と、異国の思想や文化が長い時間をかけて伝来してきた歴史的な時間の流れに言及しています。また、第百三十七段などでは、仏教における輪廻転生や悟りといった概念が示唆されており、これは人間の短い一生をはるかに超える、無限とも思える時間のスケールへの意識が含まれています。
このように、『徒然草』は日常生活の中の短い時間から、歴史、さらには超越的な時間まで、様々なスケールで時間を見つめ、それぞれの時間の中で人間の生や世界のありようを考察していると言えます。
文体と時間感覚
『徒然草』の最大の特徴の一つである断片的な文体も、兼好の時間感覚と無縁ではないかもしれません。「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心に移りゆじり行くよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という冒頭の一節にあるように、『徒然草』は必ずしも論理的な一貫性や物語的な連続性を持って書かれているわけではありません。心に浮かんだことを、その「つれづれ」な時間の流れの中で書き付けていった結果として、このような形式になっています。
この断片性は、線形的で統一された時間観念ではなく、むしろ瞬間瞬間の気づきや思いつきが並列されるような、非連続的な時間感覚を反映していると解釈することも可能です。一つの章段が独立した小宇宙のように存在し、それぞれが異なる時間軸や視点を持っているかのようです。読者はこれらの断片を行き来することで、『徒然草』全体が持つ多層的な時間構造を体験することになります。
結論
『徒然草』における時間の観念は、仏教的な無常観を基底としながらも、単一ではなく極めて多様であることが分かります。世の定まりなき移ろいを肯定的に捉える無常観、過ぎ去った日々への愛惜や現在への観察といった個人的な時間感覚、そして刹那的な瞬間から歴史、さらには悠久の時間まで、様々なスケールでの時間への意識が織り交ぜられています。
兼好はこれらの多様な時間の中で、人間の生のはかなさや滑稽さ、そして世界の奥深さを見つめています。そして、『徒然草』の断片的な文体そのものも、線形的ではない独特な時間感覚を表現していると考えることができます。
本稿で取り上げた章段以外にも、『徒然草』には時間の観念について深く考察を促す記述が数多く存在します。他の章段における時間の描写はどのように異なり、あるいは共通しているでしょうか。また、『方丈記』や『枕草子』といった他の随筆文学との比較から、『徒然草』独自の時間観念をより鮮明にすることもできるかもしれません。さらに、近現代の哲学や文学における時間論と比較することで、『徒然草』の時間観念が持つ現代的な意義を問い直すことも可能でしょう。
これらの問いは、『徒然草』における時間の観念をさらに深く探求するための出発点となります。本稿が、読者の皆様にとって、『徒然草』の新たな読み方を発見し、多様な解釈を巡る議論を深める一助となれば幸いです。