『宇治拾遺物語』における笑いの考察:その多様な機能と解釈の可能性
はじめに
『宇治拾遺物語』は、鎌倉時代前期に成立したと見られる説話集であり、『今昔物語集』と並ぶ代表的な作品群です。仏教説話、世俗説話、怪異談など多様な主題を含んでいますが、その中でも特筆すべき要素の一つに「笑い」があります。単なる滑稽さにとどまらない、『宇治拾遺物語』における「笑い」は、人間や社会の様相を映し出し、読者に様々な示唆を与えるものと考えられます。本稿では、『宇治拾遺物語』における「笑い」の多様な機能を探求し、その解釈における複数の可能性について考察いたします。
『宇治拾遺物語』に見られる笑いの多様な機能
『宇治拾遺物語』に登場する「笑い」は、その対象や文脈によって様々な機能を持っています。
1. 滑稽さと人間描写
最も分かりやすい機能は、人間のおかしな言動や失敗から生じる滑稽さです。例えば、巻三「児のそら寝」の話では、稚児がお経を暗唱しているように見せかけて実は寝ており、餅を盗み食いしようとして失敗する様子が描かれます。
児、心得て、すゞろに目をいと赤くして、いみじう泣きければ、 僧都あはれがりて、「こはいかに。」との給はすれば、「御餅をだに食はでは、腹あしく候に、とてもかくても今日を明かしかねて候。」と申す。 (巻三、児のそら寝。現代語訳は筆者)
この稚児のしたたかさと、それが露呈した際の滑稽さは、人間の狡猾さや食い意地といった側面を生き生きと描き出しています。ここでの笑いは、読者が自己や他者の人間的な弱さ、あるいはしたたかさをどこか共感的に、あるいは苦笑とともに受け止めることを促す機能を持っていると言えるでしょう。
2. 教訓・戒めとしての笑い
世俗的な欲望や愚行の結果として生じる笑いは、しばしば教訓的な機能も果たします。巻十一「これも今昔より落ちたること」として収録されている「鷹をもて人と人とに盗ませて罪せられたる事」の話では、互いに相手を出し抜こうとした男たちが、結局は共倒れとなり、恥をかくだけでなく罪に問われます。彼らの企みが露呈し、無様な姿を晒すことは、読者に対する一種の戒めとなります。ここでの笑いは、愚かさや不正に対する批判、あるいはそれらが招く破滅への警告として機能していると考えられます。
3. 信仰や権威に対する笑い
仏教説話の中には、世俗的な欲望に囚われた僧侶や、仏の教えを誤解した人々の姿を描き、そこから生じる笑いを通じて、真の信仰とは何かを問い直すような話も見られます。また、貴族や権力者の滑稽な行動を描くことで、当時の社会における権威を相対化し、読者に共感を呼ぶ場面も存在します。巻四「いもがらに請文かかせたる事」では、畑を荒らされた老人が、その犯人であるサルに対して滑稽な請文(詫び状)を書かせようとしますが、この話は権威の滑稽な側面を描きつつ、同時に無力な庶民のささやかな抵抗を描いているとも読めます。
4. 不条理や怪異と結びついた笑い
『宇治拾遺物語』には、現実離れした怪異譚も含まれていますが、そうした話の中にも笑いの要素が見られることがあります。例えば、化け物とのやり取りの中で生じる意外な展開や、非日常的な状況下での人間の滑稽な反応などです。これは、理解を超えたものに対する困惑や恐怖が、形を変えて笑いとして現れるという、人間の心理的な側面を示唆しているのかもしれません。不条理な出来事の中に見出す笑いは、現実世界では処理しきれない不安や恐怖に対する、物語世界での一つの昇華の方法とも解釈できます。
笑いの解釈における多様な可能性
『宇治拾遺物語』における「笑い」は、単一の視点からのみ解釈されるべきものではありません。読む者の立場、時代の背景、あるいは特定の解釈理論を適用することによって、多様な読みが可能となります。
例えば、社会史的な観点から見れば、作品に描かれた笑いは、当時の庶民の生活や価値観、権力に対する彼らの意識などを反映していると捉えることができます。笑いの対象が何であるか、どのような状況で笑いが生じるかに注目することで、当時の社会構造や人間関係の一端が見えてくる可能性があります。
また、批評理論の視点から見れば、フロイトの笑いに関する理論(緊張の解放としての笑いなど)や、ベルグソンの「硬直した機械的なもの」に対する笑いといった概念を適用することで、『宇治拾遺物語』の笑いが持つ心理的な側面や、人間性の描写における意味合いを深く考察することができます。さらに、ポストコロニアル批評やジェンダー批評の視点から、作品に描かれる特定の人物や状況に対する笑いが、どのような権力構造や差別意識を内包・再生産しているかを問い直すことも、現代における重要な解釈の方向性となり得ます。
結論
『宇治拾遺物語』に見られる「笑い」は、単なるエンターテイメントの要素に留まらず、人間の多様な側面、社会の有り様、あるいは信仰といった主題と深く結びついています。滑稽さ、教訓、批判、不条理といった様々な機能を持つこの「笑い」は、読者に対して単純な理解を超えた、多層的な読み取りを要求します。
特定の説話における「笑い」が、どのような背景から生じ、どのような機能を果たしているのか、そしてそれが現代の読者にどのような問いかけを投げかけるのか。こうした問いは、『宇治拾遺物語』という作品を深く味わうための重要な手がかりとなります。コミュニティの皆様においては、ぜひ『宇治拾遺物語』の様々な説話に触れ、そこに描かれる「笑い」について、ご自身の視点から自由に、そして深く考察していただければ幸いです。多様な解釈が集まることで、作品世界への理解はさらに広がるものと確信しております。