古典を読むための解釈サロン

和歌における比喩表現の多角的解釈:『古今和歌集』を中心に本歌取り、掛詞、縁語を読み解く

Tags: 和歌, 古今和歌集, 修辞技法, 本歌取り, 掛詞, 縁語

はじめに:和歌の修辞と解釈の深み

古典和歌は、限られた三十一文字の中に複雑な思いや豊かな情景を凝縮する文学形式です。その表現を支える重要な要素の一つが、様々な修辞技法、いわゆる言葉の綾です。特に本歌取り、掛詞、縁語といった技法は、歌に多義性や奥行きを与え、読者による多様な解釈を可能にします。これらの修辞技法は単なる言葉遊びではなく、先行する歌や同時代の言葉のネットワークを参照し、作者の意図や当時の美意識を反映するものです。

本稿では、『古今和歌集』を中心に、和歌における本歌取り、掛詞、縁語という三つの代表的な比喩表現(広義)に焦点を当て、それぞれの機能と、それがもたらす解釈の多様性について考察いたします。これらの技法を深く理解することは、和歌の豊かな世界に触れ、その解釈をさらに深める上で不可欠な視座を提供すると考えられます。

本歌取り:過去との対話が生む歌空間

本歌取りとは、先行する有名な和歌(本歌)の一部や趣向を取り入れて、新たな歌を詠む技法です。これは単に先行歌を模倣することではなく、本歌が持つ情景や情感、あるいはその歌が喚起する文脈や記憶を借りて、新しい歌の中に響きを持たせることに目的があります。

例えば、『古今和歌集』巻第一、春歌上の紀友則の歌

久かたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ (ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづごころなく はなのちるらむ)

(訳:こんなに光のどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく花は散るのだろう。)

この歌は、作者自身の先行する別の歌を下敷きにしているという説もありますが、本歌取りの典型的な例としては、この歌自体が後の世に数多くの歌に取り入れられました。本歌取りが行われるとき、新しい歌は本歌の持つ情感や世界観を背景に背負うことになります。先の紀友則の歌であれば、「光のどかな春の日」という穏やかな情景の中に「花の散る」という動きを見出し、その対比に心を動かされる情感が新しい歌に引き継がれる可能性があります。

本歌取りの解釈においては、どの歌を本歌とするか、作者が本歌のどの要素を取り入れたか、そして本歌の文脈と新しい歌の文脈がどのように響き合うのか、といった点が論点となります。複数の本歌候補が考えられる場合や、取り入れられた要素の解釈が分かれる場合など、多様な読みが生じる余地が多く含まれています。これは、過去の文学遺産に対する敬意と創造性の両立を図る、当時の歌人たちの高度な技術と知性が反映されたものと言えるでしょう。

掛詞:言葉の響きが生む意味の重層

掛詞は、一つの言葉に同音または類音の二つ以上の意味を持たせる技法です。これにより、一つの歌の中に複数の情景や感情、思想などを織り込むことが可能となり、歌に豊かな奥行きと複雑なニュアンスを与えます。

『古今和歌集』巻第二、春歌下にある素性法師の歌は掛詞の例としてよく挙げられます。

みるめなき わが身をうらの 藻塩草(もしほぐさ) かきあつめては 思ひこがれぬ (みるめなき わがみをうらの もしほぐさ かきあつめては おもひこがれぬ)

(訳:「見る目がない(私に振り向いてくれない)」わたしの身を、まるで(海辺の)浦の藻塩草のように、(人の心を)かき集めては、(藻塩草を焼くように恋に)思い焦がれていますよ。)

この歌にはいくつかの掛詞が含まれています。 * 「みるめなき」:「見る目がない」(人に認められない、振り向いてもらえない意)と、海藻の「みるめ」が掛けられています。 * 「うらの」:「浦」という場所と、「憂ら」すなわち憂鬱な気持ちや裏腹な心の意が掛けられている可能性があります。 * 「思ひこがれぬ」:「恋に思い焦がれる」という心情と、藻塩草を焼いて塩を作る際に火で「焦がす」という行為が掛けられています。

掛詞の解釈では、それぞれの掛かる意味が歌の中でどのように機能しているのかを読み解くことが重要です。単に言葉遊びとして機能する場合もあれば、歌の中心的な情感や状況を表現するために用いられる場合もあります。例えば上記の歌であれば、「みるめ」と「藻塩草」、「浦」、「思ひこがれぬ」といった海辺の情景に関わる言葉が連鎖し、そこに作者の嘆きや恋の苦しみが重ねられています。掛詞の有無や、それぞれの意味がどの程度強く意識されているかによって、歌の印象や情感の深さは大きく変わりうるため、読者や研究者によって解釈が分かれることもあります。

縁語:言葉の連想が広げる歌の世界

縁語は、ある言葉から連想される関連語を歌の中に織り交ぜる技法です。直接的な比喩や掛け合わせとは異なり、言葉同士の意味的なつながりや慣習的な連想によって、歌の世界に広がりや奥行きをもたらします。

『古今和歌集』巻第四、冬歌にある紀貫之の歌には縁語が見られます。

秋きぬと めにはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる (あききぬと めにはさやかに みえねども かぜのおとにぞ おどろかれぬる)

(訳:秋が来たと目にははっきりと見えないけれども、風の音によって、(秋が来たことに)はっと気づかされました。)

この歌には直接的な縁語は少ないかもしれませんが、『古今和歌集』においては、例えば月、露、草、虫などを秋の歌に、雪、氷、水などを冬の歌に配するといった季節に関する縁語が多く見られます。また、恋歌においては、「逢う」という言葉に対して「見る」「聞く」「涙」「袖」などが縁語として用いられることがあります。

より明確な縁語の例としては、後代の歌になりますが、『新古今和歌集』の藤原定家の歌に見られる「霧」「立ち出でて」「空」「秋」「夕暮れ」といった言葉の連鎖などが挙げられます。

縁語の解釈においては、どのような言葉の連想が用いられているか、そしてその連想が歌全体の意味や雰囲気にどのように寄与しているかを読み解くことが鍵となります。縁語はしばしば複数の言葉に渡って用いられ、歌の中にゆるやかな言葉のネットワークを構築します。このネットワークの読み方によって、歌の描く情景や情感の解釈に幅が生まれます。例えば、「涙」という言葉を見たときに、「袖」や「濡れる」、「川」などを連想させることで、単に泣いているというだけでなく、その状況や感情の深さ、継続性などを暗示的に示すことができます。縁語の連鎖をたどることは、歌人が言葉に託した暗示や余情を読み取る作業と言えます。

比喩表現の複合と解釈の多層性

和歌においては、これらの比喩表現が単独で用いられるだけでなく、複数組み合わせて用いられることも珍しくありません。本歌取りの中に掛詞が用いられたり、縁語のネットワークの中に掛詞が溶け込んでいたりするなど、複雑な様相を呈することがあります。

複数の技法が複合することで、歌の意味はさらに多層的となり、解釈はより複雑で豊かなものとなります。例えば、本歌取りで過去の歌の情景を呼び起こしつつ、掛詞で異なる意味を重ね合わせることで、過去と現在、公的な世界と私的な心情、といった対比や融合を表現することが可能になります。

このような複合的な表現を持つ歌の解釈では、それぞれの技法を識別し、それらがどのように相互に影響し合い、全体としてどのような意味や効果を生み出しているのかを分析する必要があります。どの技法が中心的な役割を果たしているのか、あるいはそれぞれの技法が独立して機能しているのか、といった点も重要な論点となり得ます。読者の知識や感受性によって、技法の認識の度合いや、そこから引き出される意味合いが異なるため、まさに多角的な解釈が求められる領域です。

まとめ:解釈サロンにおける和歌談義に向けて

本稿では、『古今和歌集』を中心に、和歌における本歌取り、掛詞、縁語という代表的な比喩表現の機能と解釈の多様性について考察いたしました。これらの技法は、和歌が持つ限られた形式の中で、いかに豊かな意味と情景を表現しうるかを示すものです。

和歌の解釈においては、これらの修辞技法を識別する知識はもちろんのこと、それぞれの技法が歌全体の文脈や作者の意図、当時の文学的・文化的な背景の中でどのように機能しているのかを深く洞察することが求められます。また、一つの歌に対して複数の解釈が可能であるという認識を持つことも重要です。時代や読者によって、同じ歌でも異なる側面が光を放つことがあります。

本稿が、皆様が和歌を読む際の新たな視点となり、古典を読むための解釈サロンにおいて、和歌の比喩表現を巡る活発な議論や深い探求の一助となれば幸いです。特定の歌に用いられた比喩表現について、皆様はどのように読み解かれますでしょうか。それぞれの言葉が織りなす綾を共に紐解き、和歌の奥深い世界を探求してまいりましょう。